閔妃(ミンビ)暗殺―朝鮮王朝末期の国母 (新潮文庫)
角田 房子 / 本
閔妃(ミンビ)暗殺―朝鮮王朝末期の国母 (新潮文庫)電子ブックのダウンロード - 角田 房子による閔妃(ミンビ)暗殺―朝鮮王朝末期の国母 (新潮文庫)は新潮社 (1993/7/29)によって公開されました。 これには466ページページが含まれており、本というジャンルに分類されています。 この本は読者からの反応が良く、49人の読者から4.4の評価を受けています。 今すぐ登録して、無料でダウンロードできる何千もの本にアクセスしてください。 登録は無料でした。 サブスクリプションはいつでもキャンセルできます。
閔妃(ミンビ)暗殺―朝鮮王朝末期の国母 (新潮文庫) の詳細
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タイトル : 閔妃(ミンビ)暗殺―朝鮮王朝末期の国母 (新潮文庫)
作者 : 角田 房子
ISBN-104101308047
発売日1993/7/29
カテゴリー本
ファイル名 : 閔妃-ミンビ-暗殺-朝鮮王朝末期の国母-新潮文庫.pdf
ファイルサイズ25.78 (現在のサーバー速度は21.88 Mbpsです
閔妃(ミンビ)暗殺―朝鮮王朝末期の国母 (新潮文庫)電子ブックのダウンロード - 内容紹介 時は19世紀末、権謀術数渦巻く李氏朝鮮王朝宮廷に、類いまれなる才智を以て君臨した美貌の王妃・閔妃がいた。この閔妃を、日本の公使が主謀者となり、日本の軍隊、警察らを王宮に乱入させて公然と殺害する事件が起こった。本書は、国際関係史上、例を見ない暴挙であり、日韓関係に今なお暗い影を落とすこの「根源的事件」の真相を掘り起こした問題作である。第一回新潮学芸賞受賞。 内容(「BOOK」データベースより) 時は19世紀末、権謀術数渦巻く李氏朝鮮王朝宮廷に、類いまれなる才智を以て君臨した美貌の王妃・閔妃がいた。この閔妃を、日本の公使が主謀者となり、日本の軍隊、警察らを王宮に乱入させて公然と殺害する事件が起こった。本書は、国際関係史上、例を見ない暴挙であり、日韓関係に今なお暗い影を落とすこの「根源的事件」の真相を掘り起こした問題作である。第一回新潮学芸賞受賞。
カテゴリー: 本
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表紙・口絵写真の女性が閔妃本人ではないとほぼ確定し、暗殺事件における日本政府の関与などにも諸説あって賛否両論絶えない本。第一回新潮学芸賞の選考にあたって本書に一票を投じた司馬遼太郎も、本書そのものについてはいたって抽象的な数行のみ、あとは当時の朝鮮事情の解説に終始するという不思議な選評を遺しており、微妙な当惑が窺えないでもない。実際、「韓国語が読めない」(単行本p.364)、「ハングル文字が読めないという大弱点」(同p.288)を自認する著者のリサーチには限界があるはずで、朝鮮・韓国側のデータに依った部分にある程度のバイアスがかかっているのを見込んで読む必要はあろう。そんな悪条件の中、韓国での取材で得た情報・証言も「研究家に教えてもらった。根拠はないが本当だと信じている」(同p.49)とか「当時の在野人―反・閔妃派―でそう書いた人がいたからそれを採った」(同p.85)―いずれも大意―など、信頼度に「?」が付くものは保留、某大学教授の「洪鐘宇は朝鮮のフランス留学生第一号」説は仏・韓の条約締結時期からはっきり否定する(同p.188)など、客観的な姿勢はしっかりしており、渇いて硬質な文体と冷静な筆致で描かれる閔妃像は、和宮やダイアナ妃のような「悲運の女性」とは一線を画して、副題の「国母」から想像される共感や賛美、同情のトーンはごく希薄、むしろ否定的。何より、我が国では征韓論から日清・日露両戦前後の幕間かツナギのように扱われがちな李朝末期の朝鮮事情を当事国内の視点で辿っていくのは新鮮かつ読み応えがある。例え疑義や異論があろうと、日韓関係を考えるにあたって、一つの評価軸ないし叩き台としてまずは一読すべきではないか。日本外交の悪辣さに「怪しからん!」あるいは「そんなはずない!」と感情的に拒絶反応を示す向きもあるが、田舎の有力者同士がコップの中でケンカを繰り返しているうちに新興の第三勢力に付け入れられ、食い物にされていくさまはまさに我が国戦国時代の再現。密約に暗殺、偽勅に錦旗にクーデターと謀略に明け暮れた幕末史の延長を見るようでもある。まあ、「歴史認識」とよく言うけれど、「歴史」も「認識」も本来は主知的なもの、侵略も圧政も虐殺も正邪善悪の道義論・価値論ではなく飽くまで与件として扱われるべき―そこから先が「歴史観」の問題になる―で、それからすると、本書のいささか情緒に流れて厳密さを欠く部分―朝鮮通信使を飽くまで友好的・牧歌的な善隣外交として描く、隣国に対する “申しわけなさ”“遺憾の念”への言及、首府を李朝当時から一貫して「ソウル」と呼称する、就中「同胞として私には書くに耐えない」(同p.323)という省筆等々―は、その分だけ史書としての迫力を殺ぐ結果となった憾みが残らないでもない。「歴史小説と歴史書の違いは会話文の有無」という秦郁彦に従って、おそらくロシア語原文の史料・文献には殆ど触れずに書き上げられたであろう『坂の上の雲』と同じ「小説」として読むのが一番ふさわしい、といったところか。三たび司馬を引き合いに出せば、暗澹として虚無的な読後感は確かに『翔ぶが如く』―司馬長編の最高傑作―のそれに近いものがある。
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